見えないもの
日蓮宗静岡県中部宗務所
布教師会長 塚本智秀師
1、見えないもの
私たちは見えないものに支えられ、そして脅かされてもいる。
東日本大震災につづいて今年は、熊本大分の大地震からもつきつけられた現実は痛烈である。
想定外ということが起きると騒ぎ出す。
勝手気ままに世の中を左右し、私たちに都合の良いことだけを集めては、これを現実と見做す。お釈迦さまは「私たちの心が顛倒(ひっくり返る)していては、傍に仏さまが控えているにもかかわらず気がつかない」と仰る。
辛いこと、悲しいことばかりの娑婆を選んで生まれてきた私たちなのだから、今こそ踏ん張る時なのかもしれない。
今さらながらに自我に埋もれた本当の自分自身の姿に気がついた時、あらためて人々への思いやりや苦しみを共に解決していこうという決意までも湧いてくることを教えてくれるのは仏教にほかならない。
2、仏意頂戴
お経は「読む・訓む・上げる・受ける・いただく」さまざまな受け取り方がされている。お経とは私たちの口を介して声に出すお釈迦さまのお説法のことをいう。
お釈迦さまがいらっしゃった遠い昔、文字がまだ十分でなかった頃人々は一言も洩らすまいとお説法を真剣に聞いた。お釈迦さま御入滅後、人々はお釈迦さまが説いた教えや行いを文章にまとめたものが「お経」である。
私たちが声に出して発するお経文は、実はそのまま私自身の耳に届いているのである。
ならば、私たちは知らず知らずのうちにお釈迦さまの教えを、今ここで聞いていることなる。「お経を読む」というが、正しくは「聞いているのであり」さらに、お経は「いただくもの」ということになろう。
3、諸悪莫作(わるいことはしない)
この世の中に正しいことが少ないのが娑婆世界だという。「あたりまえのことをあたりまえにする」仏教の極意はここにある。故事に謳われるのは釈尊在世のもっと遠い昔から、子供にも分かる悪いことはしてはならない、これに尽きる。それをしないことが、善いことを勧めるよりも道理なのであるから。
釈尊が生きる規範だった頃はよかったが、亡き後出家も在家も訳も分からずに多くの戒律を作っていく。すると善いことを成すことが前提の生き方を目指すようになるから、現代が生じてしまうという悪循環。
釈尊を含めた諸仏が時代を変えて、私たちに訴えてはきたものは何か…。
釈尊は黙して語らず、経文では「もう、いいだろう」と幾度もつぶやく。
『七仏通戒偈』を読む