法話

「こころの拠り所」 ~故事つけから学ぶ~

大養院 涌出宜雄

中乗りさん

木曽川を下る筏より流れる木曽節(木曽節は武将木曽義仲の鎮魂歌)、その民謡で有名な句が“木曽のナーア、なかのりさん…”。筏には三人の船頭が乗る。前の舳先(へさき)に乗るのが、「へのりさん」。後ろの艫(とも)に乗るのが「とものりさん」。真ん中に乗るのが「なかのりさん」。へのりは竿を使い、とものりは舵をとる。急流、息もつけないその僅かの間、調子をとりながら、よい喉をきかせ、前後の二人を励ますのが中乗りさん。一見、役はないようだが、前後に気配り、あるいは叱り、あるいは注意して二人を励ましていく、この「中乗りさん」こそ筏の命である。現代家庭は核家族となり夫婦と子ども。中乗りさん役の祖父母がいない。そこに文化の伝承がなく、子どもへの配慮が失われたと言われる。また、個人として人間として、中心となる信念、信条の中乗りさんが不在である。

へそくり

「綜麻(へそ)を繰る」…綜は機(はた)で織ること。
婦人たちが麻糸を作る作業の時に、細かにした麻の繊維を毎日三本ずつ別に貯めておいて、それが貯まると麻糸に紡ぎ麻布を織って、実家・里の親の死んだ時に着せる経帷子
(きょうかたびら)を織った。
一日に三本の繊維で着物を織る分量になるまで貯めるのは、かなりの長年月がかかる。織りあがった時に親が元気であれば、それを染めて親に贈り長寿を祝った。一日僅か三本、取るに足らぬ分量をへそくる。それは秘密ではなく主人も公認のこと。「お母さん、長生きしてね。まだまだ着物はできないわよ」そんな思いを込めてへそをくった。これが“へそくり”の語源。親への思い、親孝行が本来だが、現在は内緒の我欲。

腕白でもいい

“腕白でもいい。たくましく育ってほしい”。懐かしいTVのコマーシャルである。腕白の語源は、中国で“ならず者”のことを、
「忘八」(又は亡八)という。忘八の中国語ワンパーの音訳が腕白になった。
また「君子可八」という人間の条件として八項目の徳目が挙げられる。(儒教)
 (あわれみ、思いやり)
 (正しいみちすじ)
 (挨拶、敬意)
 (智慧、さとし)
 (まこと、信用)
 (私なきこと、公共精神)
 (先祖、両親を大切に)
 (兄弟仲良く)
この八項目を無視する者が、無法者・ならず者、即ち腕白である。現在は子どもだけでなく一般人も忘八が多い。

牡丹に唐獅子

shishibotan“牡丹に唐獅子、竹に虎”これは安全な拠り所をいう。獅子は百獣の王で、恐れるものはないが、その毛皮に付く虫は最強の敵で、皮を破り肉をついばみ、骨まで噛み砕く。所謂“獅子、身中の虫”である。この虫を死滅させるには牡丹の夜露がよいとされる。そこで獅子は牡丹の花の下に身を寄せるのである。
虎も恐れる敵はないが、象を嫌う。象は竹薮を避ける。竹薮の中では大事な象牙が折れかねない。そこで虎は竹薮に身を寄せていれば何一つ恐れるものがない。即ち、両者共に安全地帯、拠り所をいう。現代人は何を拠り所とするか。物・金…、それは結局、儚く消えていく。三宝帰依の心こそ真の拠り所とすべきである。

2014-09-22 | Posted in | Comments Closed